maOpinion No-2

日本のアイデンティティー
日本の定型
ひとたび日本をよく知らない外国人から、「日本ってどういう国・・・?」と説明を求められたとき、果たしてどれくらい明解に私たちの国、あるいは日本人の特質を伝えられるでしょうか。
「日本の伝統」といっても、歌舞伎だ能だ、茶道、華道、冨士山芸者などは、もはやただのステレオタイプでしかありません。
一方、あまりにも学問的な内容を披瀝することも考えものです。
言葉や文章で説明できる要素(美意識)はあるものの、いまや美しい日本の言葉は失われ、立ち居振る舞いはぞんざいになり、漢字で書かれた商品名は下品になり・・・と、かつて美しいといわれてきた日本の美質は消えつつあります。しかしそれでも、からくも持ちこたえている「日本の特質」は多くあります。それが、消すに消せない出自という「血」のなかに生きています。
そうした言葉に頼らない日本の美が、冒頭に掲げた日本の「定型」です。
日本伝統の「定型」は、古人が練り上げ、大衆に認知され、共有され、現在にいたってなお失われていない大きな財産です。
この視覚化された「定型」は、世界中で「これぞ日本だ」と認識されるはずなのです。しかし、あまりにも身近でありすぎると、日本らしさとしてあらてめて「定型」を示す気持ちを持たなくなっています。
「定型」が本来の日本の美であり、日本人の知性と美意識の凝縮であると再認識し、その名称と共に、積極的に世界に発信することが大切だと考えます。

日本の美は「簡潔で清浄」
「定型」が出来上がっていく背景を考えてみます。
日本人の自然に対する感受性について、よく耳にする言葉があります。
 「欧米人は自然と対決する」
 「日本人は自然を取り込む」と。
日本人は、自然と対立するのではなく、自然を自分の側に取り入れよう、または共生しようとする姿勢をもっているといわれます。それは「借景」とか「盆栽」といった行動に表れています。
四季のなかで培われ、今に引き継がれている日本人独特の感性は、「空間意識」と「色彩感」でしょうか。
日本以外のアジアの美的感覚、例えば中国、韓国を観てみます。
歴史的な民族交流を考えても、ほぼ同等の美的感覚を持っているとしても不思議ではありません。むしろ日本はそれらの国々を文化の先進国として学んだ時代もあったのです。にもかかわらず、個別的な事例を挙げるわけではありませんが、中にはどうしても受け入れがたい美感があります。日本人にとってのいちばん大きな異質感は、「装飾過多」と「色彩感覚」でしょう。妙に生々しい写実や、原色の組合せなど、それが今なお受け継がれているのはそれが国民性だからという以外考えられません。わが国の江戸時代なら「野暮」とされかねない感覚です。
そうした国々の影響を咀嚼しながら、わが国独自に鍛え上げられた美意識は「簡潔で清浄な美感」です。
桂離宮、伊勢神宮、家紋、そして諸々の所産に施された意匠は、それが最高のレベルで 結実している例といえます。それはまた、時代を問わず、デザインに要求される必須要件でもあります。複雑雑多なデザインだってあるではないか、との反論もあるでしょう。しかし、それをしもよくよく観れば、わが国独自の「簡潔で清浄な美感」が通奏低音のように響いているはずです。その上での複雑とか混成であるからこその美しさであると納得できることでしょう。その証拠に、先のアジアの人々も、そうした日本の美に追従しようとしています。
インターネット情報の渦中にいる我々は、つい自分の立つ位置を忘れてしまいがちですが、「自分にもしみ付いている」にちがいない日本の独自性を再認識したいと思います。

その「美意識」を具体的な言葉に置き換えてみます。

1、余白の美
余白の美しさが端的に感じられるのは「書」です。
書道は日本固有のものではありません。しかし、日本固有の芸術に育つ発芽要素は古くからありました。
中国を起源とする漢字とその表現は、文字の「筆法」や「美醜」を学ぶもので、その他の要素(例えば空間)は念頭にありません。あくまでも中国式であり、 中国本国人に褒められることを良しとしたものです。空海が中国人をして「五筆和尚(手足口5本の筆で同時に書く)」と尊敬せしめたように。
漢字を「真名」とよぶのに対して「仮名」と名付けた書体の発明(ほぼ800年前後)は、日本の墨筆の世界をガラリと変えました。「仮」どころか、こちらの方が日本の「真」であると言えます。
「流麗」という言葉は、まさにこの書体を指します。
画数の多い漢文字を行書体にしたとしても、あくまでも「読む」 「伝える」という姿勢はくずれていません。
行書体から変身した仮名文字は、女文字と呼ばれるように、ヤワヤワとした優しさがあふれる全く新しい書体で、その発明は、大げさに言えば当時の人々の生活を大きく変化させたのです。
覚えやすく書きやすく読みやすいゆえに、情報の理解層を飛躍的に増やしたことは、後々日本人の識字率の高さ、聡明さに、他国の人々は驚かされることになります。
消息手紙や恋文も、和語を使って感情のままに表現できたことでしょう。それは、文字の世界に機能以外の要素が混じり始めたことを意味します。
源氏物語絵巻にある、文字列が重なり合う乱れ書き(源氏物語絵巻 詞書第三面)もそのひとつです。恋情の悩ましさをを、心(文意)そのままに表現し、しかも見た目にも美しく、読む者を心象風景を観る如く文中に引き込みます。
また、短歌、俳句などに見られる散らし文字は、その限られた言葉から受ける広々とした空間を、視覚的にも感じさせてくれます。とともに、歌意をより確か に伝えるために、文字そのものの美しさもさることながら、余白の部分(空間)と調和することが重要とされました。
こうした感性は、やがて文字を脱出して「墨抄」「墨象」という芸術に移行するのも故なしとしません。

2、余韻 
簡潔で清浄な美感がストレートに表現される場合は、人の情感を決定づけ、迷いを断ちきってくれる爽快さがあります。
しかし、いっぽうで日本人が大切に思うのは、物事をドライに割り切りたくない感情です。気遣いの気分ともいえるでしょうか。サッパリと断ち切ってしまいたくない、揺蕩(たゆた)う気分の慎ましさ、それは叙情豊かな美感を生むことがあります。
ぼかし、淡し、崩し、そして上記の「乱れ」などの表現を伴うと、日本独自の奥ゆかしい余情美を醸しだします。
日本の文様や日本画などでは、霞(かすみ)、靄(もや)、霧(きり)などが、わが国特有の季節感を伴って描かれます。澄み切った空気感より、すべてが見通せない湿潤な空気に、もの思わせる美の余韻を感じるからでしょう。
雲形もそのひとつです。多彩な風景を雲形で割り分ける手法は、余韻をつなぐわが国独特の画面構成で す。
八つ橋(やつはし)という橋の定型があります。
普通の橋なら一本で仕上げた方が機能的には良いと言えます。しかし、わざと橋をずらしてつなげます。これは、人は従順な動作を規制されると一瞬立ち止まり、なんらかの心のゆらぎを覚える、という高度な人心操作術なのです。
庭園や池の飛び石もまたしかりです。
こうした行動の抑制感は、視覚においても同じです。日本家屋の床の間、その横にある「違い棚」もそうした「視線の規制」に当たります。
松皮菱文様の折れ線による画面構成も、一直線の視線に対するちょっとした屈折が心を波立たせるわけです。
このように、ストレートに割り切らない情感は、わが国においては、芸術だけに限らず、生活習慣や挨拶言葉にまで及んでいるのは、よく外国人に指摘されるところです。

3、なりゆき/自然
日本の独自性のひとつに「なりゆきにまかせる」という考えがあります。
これを応用したデザインは、さまざまな物品のデザインに見受けられます。
波、流れ、たわみ、皺(しわ)、絞り、反り、といった、ごく自然でありながら特徴のある形が想像できるでしょう。
もし作為をもって何らかの行為をしたとしても、かすれ、滲み、捻れ、折り形、破れなど、結果的になりゆきから生まれる線や面を良しとします。
日本人の感性としては、作為の持つ低俗感を嫌う気持ちがあるようです。
折り鶴、結び、枯山水の渦模様、水引・・・などがわが国独自の形となるのは、この自然のなりゆきを推し進め、練り上げ、完成させた形となりました。
だれが、どのようにその形を用いても見る人に理解される、ということ。それが「定型」です。「定型」には、おおげさにいえば日本人の生活感そのものが凝縮されている、といってもよいと思います。

4、みたて/うがち
天体を見上げて、エジプト発祥といわれる星座の名前に添った星を見つけるのは難しいものです。一方わが国では、ある事象を視覚言語で表現しようとするとき、その実体に則した簡潔な形象を理想とします。
「あるもの」の写実表現は、単純に言ってしまえば、それそのものにしか見えない点でイメージを固定化する、と言えるでしょう。しかし、単純化された「あるもの」の形は、無限の「みたて」と「うがち」へ誘導します。幼児が積み木をあらゆるものに「みたて」ながら遊ぶ感覚を思えば納得できます。
それを高度に完成させたのが日本の「紋章」です。
そこには森羅万象が無理なくパターン化され、「みたて」の基本デザインとして凝縮されています。
紋章は、その固有名詞からみたてるのではなく、具象からみたてた形を単純化し、定形化したから、たいていの人々がそれを理解し、伝達し、広まったわけです。
古人は、その「紋どころ」からさまざまな情報を察し得たでしょう。現代人としては理解しづらい「みたて」も勿論あります。歴史的に消え去った「みたて」 もあるでしょう。しかし、時を超えて生き続ける造形というものはあります。それは「紋」としてではなく、「みたて」という、人間の頭の柔らかさを刺激してくれる形であり、納得できる単純化とともに現代に生かせる造形です。
簡潔な形は、人を納得させ、記憶させる力があります。
例えば、ポスターのデザインで、空間をふたつの面に分割しようとするとき、単純な直線や曲線で分割するより、日本刀や城の石垣の反りの曲線、または、松皮菱の折れ線で2つに分割すれば、外国人も「日本的」と認めざるをえない空間を演出できるのは、日本独自の定形でありながら普遍性をも兼ね備えているからだ、と言ってよいでしょう。

私たちが好む身辺の物品や事象をみても、この日本独自の感性が息づいていることがわかると思います。
こうした「定型」を現代に活用しながら新しい世界を拓いて行くデザイナーには、バリエーションを生む力量が必要です。

次に、デザインにおける「バリエーション」について考えます。

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